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2016.9.18 : (パラの主役)故障から復活期す元王者

車いすテニス・国枝慎吾(32)




失意と喜びがない交ぜになったリオデジャネイロ・パラリンピックの5日間の戦いが終わった。車いすテニス男子の国枝慎吾(32)=ユニクロ=は「戻りたいですね、日常に」と柔らかな笑みを浮かべた。3連覇を目指したシングルスは準々決勝で敗退したが、ダブルスでは2大会ぶりの銅メダルを手にした。感情もめまぐるしく変化し、心身ともに疲弊した。日常とは何か。「一番はツアーに戻りたい」。その先に2020年東京パラリンピックを見すえていた。
唐突な告白だった。「3週間ほど前に手術をしまして……」。5月に行われた、車いすテニスの国別対抗戦・ワールドチームカップの開催発表記者会見。国枝は4月に右肘のクリーニング手術を行ったことを明かした。関節内で遊離した軟骨や関節周囲の骨棘(こつきょく)を取り除く手術だが、国枝は「関節の中をガサガサってイソギンチャクのようなものが動いている」と、独特の表現で症状を説明した。
違和感は昨年10月からあったという。ショットを打っても、振り切れない感じがした。右肘は12年ロンドン大会前にも手術しているが、当時はコップを持つのも痛かった。今回はプレーできないほどの痛みではなかったことが判断を鈍らせた。術後約1カ月で臨んだワールドチームカップが復帰戦となり、日本は準優勝。その一方で、自身の持ち味であるバックハンドのショットは鋭さを欠いた。
国枝が「コートに戻るのが早かったといえば、早かった」と振り返ったように、その後は不振が続いた。シングルス3連覇を狙ったものの準決勝で敗退した6月の全仏オープンで痛みが再発し、7月のウィンブルドン選手権は欠場した。国枝は「気持ちは相当沈みました。妻には弱いところを見せましたが、『何とかなる』と言ってくれた。『ああ、俺ってこんなにメンタル的に弱かったんだな』って……」と振り返る。
それでも、リオ出場にはこだわった。「勝つなり負けるなり、ストーリーをつくる必要があった」というトップ選手としての意地もあったが、4年後に東京パラリンピックが控えていることが大きかった。年間グランドスラムを5度経験。15年まではダブルスのみだったウィンブルドンも3度制した。世界での頂点を極めた国枝にとっても、地元開催の祭典は特別なものだ。「これだけパラリンピックが注目されることは今までなかった。せっかくならその舞台に立ちたい」。リオでの活躍は必要な通過点だった。
国枝は小学4年で脊髄(せきずい)腫瘍を患って両足が不自由になり車いす生活になった。小学6年でテニスを始め、しばらくして現在も指導を受ける丸山弘道コーチ(47)と出会った。後に国枝とペアを組み、リオでともに涙の銅メダルを獲得した斎田悟司(44)=シグマクシス=を指導していた丸山コーチは、17歳の国枝のプレーを初めて目の当たりにして驚いた。
01年、吉田記念テニス研修センター(千葉県柏市)。雨のコートで見たその姿を丸山コーチは決して忘れないという。「テニスは大したことない。ただ、跳びはねるようにして車いすに乗っていた。完全に足ですよ」。技術を磨けば必ず世界トップになれると確信があった。
パラリンピックには04年アテネ大会で初出場して、シングルスで8強入り。1日1000回に及ぶ素振りで課題だったショットスピード、サーブ力を磨き、08年北京大会、ロンドン大会を連覇した。国枝は障害者、健常者の垣根を越えて、日本の代表的なスポーツ選手の一人になった。
しかし、障害者スポーツを巡る国内の状況は急には好転しなかった。これまでに国枝は国の練習施設を利用できないことを度々経験した。コートの利用が許されても、それ以外の施設は使用できないという理不尽なこともあった。
「慎吾、来年はロッカーを使えるようになろうぜ」「次はレストランで食事できるように頑張るか」。丸山コーチは、そう声をかけた。「僕らは初めから受け入れられるとは思っていなかった。でも、小さな夢がどんどんかなう。世の中が変わっていくのが本当に面白かった」。痛快そうに丸山コーチは語る。飛躍の歴史はそのまま、障害者スポーツの環境変化と重なり合う。
「五輪・パラリンピック」と同列に語られるようになったのは、東京大会の開催が決定した13年以降のことだ。14年4月に障害者スポーツの管轄が厚生労働省から文部科学省に移管され、五輪競技との一体強化が図られるようになった。リオを転換点に障害者スポーツに対する国内の人々の意識は確実に変わる。
一方で、国枝自身の選手生活は年齢との戦いも始まった。故障による不振、主要大会欠場の影響でシングルスの世界ランキングは9位(12日現在)まで下がった。苦しみの方が多かったリオのコートに立ってわき上がってきたのは「まだまだ負けられんぞ」という気持ちだ。20年には36歳。車いすテニスの決勝会場となる有明コロシアムには、はい上がってきた不屈の元王者の姿がきっとある。

国枝・齋田ペアが銅メダル



リオデジャネイロパラリンピックは15日、車いすテニス、男子ダブルスの3位決定戦は日本勢による対戦となり、国枝慎吾選手・齋田悟司選手のペアがセットカウント2対0でストレート勝ちし、2大会ぶりの銅メダルを獲得しました。 アテネ大会で金メダルを獲得した国枝慎吾選手・齋田悟司選手のペアは、3位決定戦で三木拓也選手・眞田卓選手のペアと対戦しました。
国枝選手と齋田選手のペアは、三木選手と眞田選手の力強いフォアハンドに攻め込まれましたが、巧みなテクニックでかわし、第1セットを6-3で取りました。
第2セットも序盤はリードを許す苦しい展開でしたが、国枝選手がリターンエースを決めるなど、中盤以降、集中力を発揮して突き放し、6-4で取りました。
国枝選手と齋田選手のペアはセットカウント2対0のストレート勝ちで、北京大会以来2大会ぶりの銅メダルを獲得しました。
国枝選手は「銅メダルで救われたかなと思います。この大会は自信が揺らいでいた中でのプレーが続いていて、テニスをするのがつらいとこんなに思ったのは初めてでした」と苦しかった胸の内をあかしました。そのうえで、「どうしてもメダルは持って帰りたかったので、よかったです。最後に勝つことができたので、苦しんだこの1年が少しは報われたかなと思います。今までとちょっと違うメダルです」と話しました。
ペアを組んだ齋田選手も2大会ぶりの銅メダル獲得で、「相手が自分のほうを狙ってくるだろうと思っていました。なるべくつないでチャンスを待ち、最後まで頑張りました。今回は毎日がプレッシャーで、どういうプレーをしようか自問自答の毎日だったので、ほっとした気持ちです」と笑顔で話しました。
三木選手は「応援してくださった方に申し訳ない気持ちです。実力を出し切っても届かないのがこういう試合なのかなと思います。今度は確実にメダルをとれるような形で東京大会を迎えたいです」と悔しそうに話しました。
また、眞田選手は「このような舞台でプレーできたことに感謝の気持ちでいっぱいです。負けてしまったのは悔しいですが、前を向いて進みたいです」と話していました。


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