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2016.9.16 : (パラの主役)義足の超人

陸上・山本篤(34)




左脚が義足のジャンパー、山本篤(34)=スズキ浜松AC=は今年、陸上男子走り幅跳び(切断などT42)で一時、世界記録保持者となった。3大会連続のパラリンピックとなるリオデジャネイロ大会で17日、悲願の金メダルと世界記録奪還を目指して競技に臨む。
トップレベルの選手への歩みは、苦し紛れとも言えるジャンプから始まった。2004年10月の記録会。それまでずっと健常な右足で踏み切っていたが、この時は助走しているうちに右足で踏み切るには歩数が合わないと分かった。どうしようもない。やむなく義足で踏み切った。記録に驚いた。出場できなかった同年のアテネ・パラリンピックでの銅メダルに相当していた。
競技用の義足は、地面に着いた時の衝撃を吸収するため、ある程度たわむ。このバネのような義足の効果を生かした跳躍を、期せずして実行していた。
アテネ大会の成績を調べてみると、金銀のメダリストは義足で踏み切っていた。08年北京大会では半数程度の選手が義足踏み切りを行っていたが、12年ロンドン大会では全選手が取り入れた。
義足踏み切りを巡っては、山本より障害の軽いクラスの世界的ジャンパー、マルクス・レーム(ドイツ)の存在が議論を呼んだ。右脚の膝から下が義足のレームは、時に健常者のトップ選手以上の跳躍を見せる。昨年の世界選手権で8メートル40をマークし、リオ五輪出場を求めたが、国際陸上競技連盟は認めなかった。健常者の選手から記録の正当性に疑問を投げかけられることもあった。
こうした状況も踏まえて山本は語る。「脚を切断して義足を使うというのは基本的にネガティブなことだ。なのに幅跳びの記録に関しては、それがネガティブでなくなるところが面白い」。偶然の発見以来、理想的な踏み切りを追求している。
山本は静岡県掛川市出身。小学校時代は野球、中学・高校ではバレーボールをしていた。高校2年の時、バイク事故で左脚の太ももから下を失った。
高校卒業後は義肢装具専門学校に通った。先輩が義足での走り方について学んでいるのを見て、義足での陸上競技に興味を持った。最初は国内のトップ選手に全くかなわなかった。義足の使い方を考えながら練習してみると、1週間ほどで記録が飛躍的に伸びた。やりがいを感じて、のめり込んでいった。競技会に参加するようになり、結果も出した。04年4月、スポーツ推薦で大阪体育大に入学した。
パラリンピックは08年北京大会が初舞台となった。走り幅跳びで銀メダルを獲得し、日本の義足陸上選手として初のメダリストになった。12年ロンドン大会は5位に終わったものの、世界選手権を13、15年と連覇した。
08年に自動車メーカーのスズキに入社し、現在は大阪府内のディーラーに勤め、接客などの業務を担当する。「仕事はお客様にお茶を出して、話を聞くまで」。海外遠征で職場を不在にすることが多く、顧客のアフターフォローが難しいため、具体的な商談に発展すると同僚に引き継ぐ。原則午後2時まで働いた後、母校の大阪体育大で練習に汗を流す日々だ。
トップレベルの仲間入りをしてから、ライバルと顔を合わせる海外の大会ではモチベーションが上がる一方、国内の試合は今ひとつ気持ちが乗らなくなったという。短く刈り込んだ髪に顎(あご)ひげ姿という風貌もあってか、その発言は粗野にも聞こえる。
今年4〜5月に鳥取市で開かれた日本パラ陸上選手権。多くの選手にとってリオ大会の日本代表入りに向けた大事な大会だが、山本は昨年の世界選手権優勝で既に代表の内定を得ていた。
地元の陸上関係者はこの大会に向け、懸命に準備を重ねてきていた。障害者陸上の中国・四国地方の大会を2年前から開催し、選手の誘導や送迎の方法、輸送の仕方を習得していた。
走り幅跳びが実施された5月1日。スタンドには約2000人の観客が入り、練習から山本の跳躍にどよめいた。山本は4回目の試技で、当時の記録を3センチ更新する6メートル56の世界記録を樹立した。 「こんな雰囲気は日本で感じたことがない。それに乗せられた。鳥取、サイコー」。試合後、興奮してそう語った。大会運営に関わった経験もあるから、会場が醸し出す雰囲気で関係者の努力を感じ取れる。そして、それを力に変えられるのがアスリートとしての山本の長所でもある。
鳥取での記録は海外の2選手に相次いで塗り替えられ、現在の世界記録は6メートル72。ただ、山本も7月の英国の大会で自己ベストの6メートル62をマークした。世界記録を出した時点で「リオの金メダルは6メートル70ぐらいの争いになるかもしれない」と話しており、世界の記録の伸びは想定内だ。
リオでは男子400メートルリレーで銅メダルを獲得した。銀メダルも既に持っている。後は「金」を取るだけだ


陸上男子400mリレー 日本が銅メダル



リオデジャネイロパラリンピック、陸上男子400メートルリレーの腕や足に障害のあるクラスで日本が銅メダルを獲得しました。
レースは6チームで争われました。日本は第1走者の芦田創選手から第2走者の佐藤圭太選手、第3走者の多川知希選手とバトンの代わりになるタッチをスムーズにこなしました。
トップはアメリカとドイツが競り合って、さらにブラジルが続き、日本のアンカーの山本篤選手は上位3チームからは離されながらも4着でフィニッシュしました。タイムは44秒16の日本新記録でした。
レースはアメリカが1着、ドイツが2着、ブラジルが3着で、アメリカのタイムは会場にも一時、世界新記録と表示されましたが、アメリカは第2走者から第3走者へのタッチを定められた範囲の外で行ったとして失格となり、日本が繰り上げで銅メダルを獲得しました。
今大会の陸上競技で日本勢初のメダルです。金メダルは同じく繰り上がったドイツ、銀メダルは地元ブラジルでした。
日本の第1走者を務めた芦田創選手は「うれしい。4人はふだんから仲がよいこともあって、そこまで緊張しなかったので、いいスタートを切ることができた」と振り返りました。
アンカーを務めた山本篤選手は「やっぱりうれしい。4年間の集大成として銅メダルを取ることができた。諦めずに最後まで走ってよかった」と笑顔で話していました。そのうえで山本選手は、5日後に金メダルを狙う走り幅跳びが控えていることについて、 「いい流れができた。陸上チームのメダル第1号でもあるので、これでいい勢いをつけて、みんなもいい結果が続いたらうれしい」と意欲的に話しました。

走り幅跳び 山本が銀メダル



リオデジャネイロパラリンピック、陸上男子走り幅跳びの足に障害のあるクラスで山本篤選手が銀メダルを獲得しました。 陸上男子走り幅跳びの足に障害のあるクラスの決勝は8人が出場し、6回の跳躍で争いました。 400メートルリレーで銅メダルを獲得している山本選手は、今大会2つ目のメダルを狙いました。 山本選手は1回目と2回目の跳躍で、いずれも踏み切りが合わずにファウルとなりましたが、3回目の跳躍で6メートル47センチをマークし、3位につけました。 勢いづいた山本選手は4回目の跳躍で、力強い踏み切りからの会心のジャンプで、自己ベストに並ぶ6メートル62センチをマークし、2位に浮上しました。このあと、この記録を上回る選手は出ず、山本選手は銀メダルを獲得しました。 金メダルはパラリンピック新記録の6メートル70センチをマークしたドイツのハインリッヒ・ポポフ選手でした。 山本選手は表彰式のあとで、「メダル争いをする中で、楽しい勝負ができました。ただ、やはり金メダルのために頑張ってきたので悔しいです」と話しました。 そのうえで4年後の東京大会については、「4年間、どうなるかわからないですが、目指さないといけないと思います」と次を見据えていました。 山本篤選手は静岡県出身の34歳で、パラリンピックは3大会連続の出場です。 高校2年生の時に交通事故で左足を切断しました。その後、義肢装具士の専門学校に進み、競技用の義足に出会ったことがきっかけで陸上を始めました。 パラリンピックは北京大会に初めて出場して、走り幅跳びで義足の陸上選手として初めて銀メダルを獲得、100メートルでも5位入賞を果たしましたが、4年前のロンドン大会ではメダルを逃しました。 その後は、義足を着けている左足の筋力を徹底して鍛えて、フォーム改善を図ったことで短距離のスピードが上がり、それに伴って、走り幅跳びでも大幅に記録を伸ばしました。 去年の世界選手権の走り幅跳びでは大会2連覇を果たし、ことし5月には当時の世界記録をマークしました。記録はその後、デンマークとドイツの選手に相次いで塗り替えられたものの、7月にも自己記録を更新するなど調子を上げていました。

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