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2016.6.23 : 「沖縄慰霊の日」追悼式




太平洋戦争末期にあった沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」の23日、「沖縄全戦没者追悼式」が沖縄県糸満市の平和祈念公園で開かれた。
沖縄戦での旧日本軍の組織的戦闘は1945年6月23日に終わったとされ、追悼式が開かれた本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)は激戦地の一つ。 犠牲者らの名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」には早朝から多くの人が訪れ、死を悼んだ。
追悼式は県などが主催。日差しが照りつけるなか、参列者は戦没者に黙禱(もくとう)を捧げた。
翁長知事は平和宣言で、「戦争の不条理や残酷さは、71年がたった今でも忘れられるものではない」と指摘。国土面積の0・6%にすぎない県に国内の米軍専用施設の74%が集中している現状を説明し、沖縄が過重な負担を強いられている点を強調した。
追悼式には、安倍晋三首相や衆参両院議長、キャロライン・ケネディ米駐日大使らが出席。安倍首相はあいさつで辺野古移設には触れず、基地負担の軽減に一つひとつ取り組んでいく意向を述べた。 事件については「卑劣きわまりない凶悪な事件が発生したことに非常に強い憤りを覚える」とし、 安倍首相自らが米大統領に直接抗議したと説明。「地位協定上の軍属の扱いの見直しを行うことで合意した」と話した。
〈沖縄戦〉 米軍は、太平洋戦争末期の1945年3月に慶良間諸島に、4月に沖縄本島に上陸。日本軍は本土上陸を遅らせる持久作戦をとり、 一般住民を巻き込んだ戦闘が続いた。激しい地上戦により、当時の県人口の4分の1にあたる県民が犠牲になったと言われ、日米の軍人も合わせると死者数は20万人以上とされる。

翁長知事の平和宣言全文

 

太平洋戦争最後の地上戦の行われた沖縄に、71年目の夏が巡ってまいりました。
沖縄を襲った史上まれにみる熾烈(しれつ)な戦火は、島々の穏やかで緑豊かな風景を一変させ、貴重な文化遺産のほとんどを破壊し、二十数万人余りの尊い命を奪い去りました。
私たち県民が身をもって体験した想像を絶する戦争の不条理と残酷さは、時を経た今でも忘れられるものではありません。
この悲惨な戦争の体験こそが、平和を希求する沖縄の心の原点であります。
戦後、私たちは、この沖縄の心をよりどころに、県民が安心して生活できる経済基盤を作り、復興と発展の道を懸命に歩んでまいりました。
しかしながら、戦後71年が経過しても、依然として広大な米軍基地が横たわり、国土面積の0・6%にすぎない本県に、米軍専用施設の約74%が集中しています
。 広大な米軍基地があるがゆえに、長年にわたり事件・事故が繰り返されてまいりました。今回の非人間的で凶悪な事件に対し、県民は大きな衝撃を受け、不安と強い憤りを感じています。
沖縄の米軍基地問題は、我が国の安全保障の問題であり、日米安全保障体制の負担は国民全体で負うべきであります。
日米安全保障体制と日米地位協定の狭間(はざま)で生活せざるを得ない沖縄県民に、日本国憲法が国民に保障する自由、平等、人権、そして民主主義が等しく保障されているのでしょうか。
真の意味での平和の礎(いしずえ)を築くためにも、日米両政府に対し、日米地位協定の抜本的な見直しとともに、海兵隊の削減を含む米軍基地の整理縮小など、過重な基地負担の軽減を先送りすることなく、直ちに実現するよう強く求めます。
特に、普天間飛行場の辺野古移設については、県民の理解は得られず、これを唯一の解決策とする考えは、到底許容できるものではありません。
一方、世界の国々では、貧困、飢餓、差別、抑圧など人命と基本的人権を脅かす、多くの深刻な課題が存在しています。
このような課題を解決し、恒久平和を実現するためには、世界の国々、そして、そこに暮らす私たち一人一人が一層協調し、平和の創造と維持に取り組んでいくことが重要であります。
私たちは、万国津梁(しんりょう)の鐘に刻まれているように、かつて、アジアや日本との交易で活躍した先人たちの精神を受け継ぎ、アジア・太平洋地域と日本の架け橋となり、人的、文化的、経済的交流を積極的に行うよう、今後とも一層努めてまいります。
戦争の経験が息づく沖縄に暮らす私たちは、過去をしっかりと次の世代に継承し、平和の実現に向けて貢献を果たす上で大きな役割を担っているのです。
本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての方々に心から哀悼の誠を捧げるとともに、平和を希求してやまない沖縄の心を礎として、未来を担う子や孫のために、誇りある豊かさを作り上げ、恒久平和に取り組んでいく決意をここに宣言します。
平成28年6月23日
  沖縄県知事 翁長雄志


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